ESSAY

今を生きる
  代々木ゼミナール帰国受験科国語講師 木村 勧
「帰国生と国内生」
 「今を生きる。」――映画のタイトルにもなった言葉ですね。今年度の夏期の授業を担当して、この言葉が印象深く残りました。毎年私は(主に夏期ですが)、帰国受験科を担当します。帰国生のクラスを担当していて感じるのは、受講生の目が「生きて」いるということです。皆、「今」に輝いています。授業中は、充実した空間が成立しています。しかも、受講生の皆はそれを当然の事として、自分達の日常のひとコマとしてこの空間をさわやかに過ごしているのです。なぜでしょう?
 残念ながら、国内生のクラスでは、このような空間が成立する事はありません。とはいっても、国内生のクラスがやる気がないというのではありません。どのクラスも大学入試に向けて授業を聞いています。しかし、何かが違うのです。私は、「帰国生と国内生で、なぜこれ程までに授業態度が違うのだろう?」と常に違和感を覚えていました。そして、ついに私なりの「答え」が得られました。そこには、単に授業態度の違いに止まらない非常に大きな問題が隠されていたのです。以下に、私が得た「答え」を紹介してみたいと思います。

「違和感の正体」
 夏期の授業は、帰国生クラスと国内生クラスと週単位で交互に指導しました。ある週の、国内生のクラスの授業を行っていたときの事です。ふと、「皆授業を聞いてはいるけれども、 ひょっとして、今この授業が衛星授業(代ゼミでは、これをサテライン授業と呼んでいます)であったとしても、皆の様子は変わらないのではないか。」と感じたのです。彼らは、「生きた人間」に接する「生きた人間」としては授業に参加していなかったのです。
 彼らにとっては、目の前の授業は「イベント」であって、あたかも映画館の映像を見ている様に授業を「見て」いたのです。これで、それまでの私の違和感の正体がつかめました。なぜ彼らが授業中に当てても答えないのか、講師と目が合ったらすぐ目をそらすのか。これに対して、なぜ帰国生が授業の初めと終わりに必ず声をそろえて「おはようございます。」「有難うございました。」と答えるのか。そして、なぜちょっとしんとしてしまった授業の時に、彼らの皆が「先生、今日はすみませんでした。盛り上がらなくて。」と私に謝りに来るのか…。
つまり、帰国生は、授業の時間中も一個の人間として今を生きていたのです。だからこそ、授業の初めと終わりには、講師という人である私に対して挨拶をしたのであり、盛り上がらなかった授業では、同じ空間を共に作っているという実感の下に、彼らなりに責任の一端を感じて、私に「謝った」のです。

「貴重な自分――only oneとしての実感
 考えてみると、帰国生の行動は人間としての、全く当たり前のものです。なぜ、国内生はこれが出来ないのかの理由もこれでわかりました。つまり、彼らは、今を生きているという実感を、恒常的に持てないでいるのです。今を生きるとは、今ここに、他の誰でもない自分がいて、自分の周りには同じようにほかの誰でもない相手の人がいると実感している状態のことです。この現実感を国内生、いや、日本の若者の多くが失ってしまっているのです。
 今ここに自分が「貴重な自分」として存在して初めて、他人への思いやりも生まれます。何時どこにいても現実感を持てない国内の若者は、一番大切なものを失ってしまっているのではないでしょうか?
 その原因は、多方面から分析できるかもしれません。例えば、彼らは資本主義の競争社会の体制、即ち能力だけで人間が評価される体制に染め上げられ、人間的な情感を開花させる機会も意欲も失ってしまったのだ、等の分析も可能でしょう。しかし、原因がなんであれ、その打開策は、まず彼らが自分自身の現状を知ることから始めなくてはなりません。その際、帰国生は国内生の目を覚ますことのできる貴重な存在かもしれないと思うのです。

「帰国生、頼んだぞ!! 」
 「先生、明日受験なんです。」と、直前のアドバイスと私が作った合格のお守りを求めて帰国受験生が連れだってやって来ます(帰国受験は大半が秋から始まるのです)。明日が試験日だ、という友人に、互いに「がんばれよ。」「がんばってね。」といって握手をしたり、抱き合って送り出したりする様子を見て、「君達、日本の大学と日本の未来をよろしく頼むぞ!! 」と、つい心の中でエールを送ってしまう私なのでした。


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