ESSAY

アメリカが教えてくれたもの
          菅原 葉子
神戸在住。夫の赴任に伴い米国ネブラスカ州に約8年間家族で暮らす。長女は元代ゼミ帰国生チューター,現在は外資系企業勤務。長男は代ゼミ帰国生チューター。長男は今春から早稲田大学大学院に進学,次男は高校3年生。

●家族5人でアメリカへ
 アメリカのネブラスカ州と聞いて,すぐにどこか答えられる人はどのくらいいるでしょうか?初めて聞いた時は私も答えられませんでした。そこはアメリカのど真ん中,昔はグレートプレーンズと呼ばれる大草原が広がり,開拓時代には幌馬車が西へ西へと向かったオレゴントレイルの通り道。今では広大なトウモロコシ畑と人の数より多い肉牛で有名な所です。私達家族が夫の赴任に伴い,当時,中2の長女,小6の長男,6歳の次男と一緒に1994年から8年余り暮らしたのは,そこの州都,リンカーンでした。
●アメリカの多様性と柔軟性
 
初めて暮らす異国の地,アメリカは日本とずいぶん違う国でした。もとより多くの移民から成り立っている国ゆえに,社会構造は複雑で,単純な価値観で割り切れない多くの問題も抱えていました。でも多様性と柔軟性に富み,異質なものを受け入れる土壌があることは,私達にとって,とても新鮮に感じました。当時,子供達が学んだESLには様々なバックグラウンドの生徒がいて,ロシアや湾岸戦争後のイラク,ボスニアの内戦を逃れてやってきた家族もいました。大学の研究者である親の仕事でイスラエルから来た友達は,クラスメートのイラク人の子が心を許してくれない悩みを我が家の娘に相談し,娘は日本では考えもしなかった,2千年に及ぶ流浪の民,ユダヤ人とアラブの関係を思って複雑な心境になったこともありました。またボスニアから来た友達の誕生会では,元高校教師のお父さんから内戦の続く母国がまだ平和だったサラエボオリンピックの頃の思い出を聞かされ,心に痛みを抱えながらも一生懸命アメリカで生きる姿に涙が出そうになったこともあります。そしてアメリカはまさにそういう人達が可能性を求めて一緒に生きる国なのだと実感したのです。
 50%を超える離婚率のこの国では,シングルマザーやブレンディッドファミリーも珍しくありませんが,複雑な家庭環境の中,オープンで前向きに生きる家族の姿もよく見ました。初対面から義理の父だと紹介してくれる子,子供が養子であるのを隠さない親,学校ではティーンエイジマザーが子供を託児所に預けて学ぶ姿があり,ホモセクシュアルを語るサークルがありました。そういう複雑多様な社会に身を置いて子供達が学んだことは何だったでしょう。それは,その中から“かけがえのない自己”を見出す行為ではなかったかと思います。そのことは同時にセルフエスティームと呼ばれる子供達の自尊感情も大いに育ててくれたと思うのです。
●アメリカでの教育
 
私達が暮らした所は日本人も少なく補習校もありませんでしたが,アメリカでは好きな事を思う存分挑戦して欲しいというのが親の願いでした。子供達は学校でトランペットやトロンボーンなどの楽器に興味を示し,マーチングバンドや市のユースオーケストラの一員になって活動しました。バスケットボール,絵画のクラス,そして兄弟は揃ってバス釣りにも夢中になりました。言語や文化背景が異なる中,学校を嫌がることもなく伸び伸びと色々な事に挑戦できたのは,アメリカの多様で柔軟な教育環境と褒めて育てる姿勢による所が大きいと思います。
 異国の生活において母親として出来ることは,子供の順応をあせらずに見守ることと,自分自身がポジティブに楽しんでいる姿を家族に見せることではないかと勝手ながら信じていた私は,コミュニティーカレッジで,社会学や心理学,カウンセリングに関するクラス等を取り,アメリカの複雑ではあるけれど興味深い多くの側面を学ぶことが出来ました。その後,長女と長男はハイスクールを卒業し,日本の大学へ帰国受験をすることになりました。土地柄,受験に関しては詳しい情報もない所でしたが,異国での生活を前向きに送ることが子供達の財産となり,帰国後も自分自身への自信に繋がったように感じました。
●キラキラ光る思い出となって
 外国に暮らしてよかったことは,家族一人一人の存在が重要な役割を果たし,日本の生活以上に家族の絆が精神的な支えとなるのを実感したことでした。そして今,子供達は巣立ち,離れて暮らしてはいますが,我が家のキラキラ光る思い出となったネブラスカ時代は,今でも家族共有の強い絆になっているとしみじみ感じています。



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