ESSAY

帰国子女諸君の距離観
          
JICA派遣専門家
八木 和彦
          
大学卒業後建設会社に就職。1年半で退職し青年海外協力隊に参加。以降、北米、アフリカ、アジア諸国に家族と赴任。農業農村開発分野の技術協力事業に従事。
   

●距離
 フィリピン、インドネシアそしてカンボジアで10年余り勤務した後、昨年からエチオピアに赴任し、アジアとは異次元の距離をアフリカに感じている。
 エチオピアの人はバス停で列をなして待つが、割り込みを防ぐべく行列する人と人はかなり密着している。行列をなすことはアフリカでは珍しく賞賛されているが、日本の満員電車はともかく私は他人と接触しながらバスを待つことはできない。握手をしながら肩と肩を付けるエチオピア式の挨拶は私にとっては異質で、頬と頬を触れ合う女性に対する挨拶の際は、戸惑いと恥ずかしさを克己し、清水寺の舞台から飛び降りるほどの度胸が要る。「洋画の世界だ。大げさな。」と思うが、彼らの文化である。
 日本の政治家が諸外国の要人と面会する際に、堂々と握手をしている姿に安心する。何処かの政治家の様に飲んだくれ記者会見ではなく、背筋を伸ばして挨拶する様は、これから困難な交渉に向かう覇気を醸し出す。英国の女王陛下との謁見に際し、主人公が過剰のお辞儀で陛下を転倒させてThe EndとなるMr. Bean主演のコメディー映画がある。映画なので笑えるが、江戸時代であれば打ち首、現代のアフリカでは国外退去であろうか。
 国や地域によって挨拶を始めとした文化や習慣が異なり、更に人によって居心地良く或いは不快に感じる距離がある。握手の距離でお辞儀をすればMr. Beanの二の舞であり、反対にお辞儀の距離ではお互いの手は届かない。お辞儀をしながら握手をしようとする距離は中途半端で、見るからにぎこちなく、何より相手との視線を外す。「勇気を持ってもう一歩前へ進んで握手を。」というのが、外国の大学で教鞭を執られた経験をお持ちの威風堂々とした恩師の話であった。一歩前に出てお辞儀の距離を自らなくすことで、握手をしながら相手を正面に見る。なるほどと思う。翻って私の場合は、お辞儀で始まり、外国人が手を差し出しているのを見て、一歩近寄って握手となるケースが多い様に思う。スムーズにできる時もあるが、悶々とはいかぬまでも実は苦慮している。握手とお辞儀の距離を測りながら挨拶する自分が見えるからである。女性が相手の際には、私から手を差し出すべきか、頬と頬を触れるのか、悩む。幾多の外国人と接してきたが、正直な気持ちだ。

●距離観
 経緯は異なるにせよ、インターナショナル校や現地校でそれぞれ学び、(日本から見た)海外で生活してきた諸君である。海外で生活することは、文化習慣や挨拶を含め、人と人との距離観を会得することでもある。会得しなければ生活できないと言っても過言ではなかろう。先の行列するエチオピア人や挨拶、手をつないで歩く男性同士など、海外では威圧感(時には滑稽感?)を覚えることがある。日本社会では人の付き合いが希薄になり、唖然とする事件が起きているという報道を聞く。モニターに現れる映像とスピーカーからの音声に対して、キーボードとマウスのボタンでやり直しを前提とした疑似世界に嵌る若者が多くなったとも聞く。しかし諸君は、肌に感じる空気や大自然の温みや地域社会の匂いを、疾走する時間の中で隣人知人友人と共有してきた。時に奇妙な感覚と戸惑いそして共感に満ちた時空間の中で、多様な文化を背景とする人たちとの距離を実体験し、距離観を育んできた。口論になることもあったかもしれないが、それは国民一般ではなく一個人としての性格に起因していることを諸君は理解していよう。
 肉体的精神的な柔軟さと強い理解吸収性を誇る諸君が多種多様な文化や習慣に触れ、新たな化学反応を起こしながらも習得し適用し更に応用してしまう。そういった諸君の感性や能力やスピードと、只一種類の距離感のまま30年近くを過ごした後海外に馳せた私のそれとはそもそも違い、その違いたるや、大きい。丁度、数少ない引き出しに何を入れたのかも忘れ、開けようとしても歪みで開けられない現実に悶々とする私に対し、快活にスムーズにそして思い通りに機能する無数の引き出しを持っている諸君である。
 引き出しは財産である。多ければ多い程良い。使うほど価値も増す。諸君が培ってきた距離観は、如何に増やし活用するかその挑戦へのパスポートであり無二の資産である。大きな飛躍を願う。


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