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以前、この誌面上で異文化を体験することによる内的な影響についてお話ししました。今回はもう一歩引いて、「異文化体験の素(もと)」つまり「文化が違うこと」の意味や意義について考えてみたいと思います。
1. 同質化の時代 科学技術が発達したために「世界が狭くなった」とはよく言われていることです。世界各国の関係が政治的にも経済的にも一層深くなってきていることも事実でしょう。今後、インターネットが発達すればそれがさらに加速することでしょう。「グローバリゼーション」・「国際化」は時代の趨勢であり、誰にも抗しがたいものでしょう。そして、「文化」も決してその例外ではありえないのです。 コカコーラが販売されていない国を探す方が大変だとも聞きます。大海原に浮かぶ小さな島のホテルでCNNのニュースを見ることができます。極端な一般化ですが、世界中の人々が共通の文化に接するようになりつつあるのです。つまり、文化の「ボーダーレス化」が進んでいるのです。(文化が国際化するというと、様々な含みがあるので、ここではあえて「文化のボーダーレス化」と表現したいと思います。) 話をもう一歩進めると、世界中の人々は今や共通の文化に接しているだけでなく、文化を共有するようになってきているのではないでしょうか。北京やモスクワのファッションショーに出品される作品は、ミラノやパリで出品される作品と同じ流れにある物が多いと聞きます。ファミコンは呼び名が違うにしても、先進国を中心に世界中の家庭に入り込みつつあるようです。つまり、ファミコンも文化の一部と認めるのであれば、世界は文化の共有化をしつつあるのです。こうした状況から、私には世界中で文化の「同質化」が進んでいるように感じられるのです。「文化の同質化」の時代に私たちは暮らしているのです。
2. 同質化について考える 世界中で若い世代がそれぞれの地域や民族の伝統文化を古臭いもの、ダサいものとして嫌い、受け継がない傾向が強まっています。無論、そうでない若者も大勢いますし、頑(かたく)なに伝統を守っている若者達も沢山います。しかし、全体的な傾向としては、より便利で、より刺激的で、より新しいものに若者達が引かれているといえましょう。これは時代を問わず、世の常かも知れません。しかし、昨今のケースでは何か危険なものを感じます。特にそれが世界規模である点と、それが「文化の同質化」を招いていたり、加速している点に大変な違和感を感じます。 世界各地には各種の「原理主義運動」や「民族主義運動」があります。これらを一種の「アンチ大国運動」、あるいは「アンチグローバリゼーション運動」として捕らえてはどうでしょう。つまり、「文化の同質化」に対する抵抗だと見ることはできるのです。「文化の同質化」が進んでいるからこそ起こっている動きだと考えれば、これも「文化の同質化」がいかに問題のあることであるかも証明しているように思います。
3. 違うことの大切さ 文化が「その地域らしさ」「その集団らしさ」を規定するものであるとするならば、文化の多様性があってこそ、その「らしさ」が保てるのです。つまり、文化の同質では意味がないのです。違うことが大切なのです。 ここに高らかに宣言いたします。『文化は多様であってこそ文化なのです。』『文化は違うからおもしろい。』
4. 違いが人類を進歩させる 何事も「差」があればエネルギーが生まれます。これは単なる物理学の法則ではありません。文化にも当てはまるものです。異なる文化が出会えば、衝突は当然起きます。文化の違いが大きければ大きいほど、その衝突が激しくなります。そしてその分だけ、それまでにはないような新しいものが生まれる可能性も大きくなるのです。こうして人類は進歩してきたのです。同質では衝突も起きないし、変化も起きないのです。当然、進歩も前進もないことになります。
5.帰国生諸君に告ぐ!! 世界の文化が「同質化」しつつある現状の中で、諸君はどうすれば良いのだろうか。当然、一つしかないだろう。『文化は多様であってこそ文化だ』ということと『文化は違うからおもしろい』ということをしっかりと心得ている人間になることだ。そして、その具現化のために次のことを実践することだ。
- まずは自分の文化を知ること
- 自分の文化を大切にすること
- ほかの文化も大切にすること
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